満州と日英同盟

例によって便が遅れた。
中国南方航空 瀋陽発香港行き、CZ635便である。
出発便ボードに、Delay とあり、定刻14時40分発のそれは16時丁度発と記されていた。
ぼくは仕方なく、時間つぶしにゲートの待合室でノートパソコンで報告書作成の続きでもやろうと、ともかく10数人ほど列が出来ているチェックインカウンターへ並ぶことにした。 普通なら10数分程度で自分の番に回ってくるはずであろうそのカウンターは、要領を得ない係員のために遅々として、ちっとも列が短くならない。 それどころか、空港の係員が特権を生かして自分の知り合いの乗客をどんどん割り込ませてくるもんだから、むしろ前の列に人が増えていたりするのだ。 どうせ発着が遅れるんだからまあいいか・・・。とも思ってみるんだけど、こんなところで突っ立ったまま時間をつぶすのは、やはりイヤだ。 それは自分の後ろに並んでる2人のヨーロッパ人も同様だった。 彼らは始めは控えめに、且つ強烈な皮肉を込めてチェックインカウンターの係員をののしり、そして中国の空港システムそのものを批判し、やがて中国人と中国共産党そのものの不完全さについて議論し始めた。「ヒースローは世界一非合理的な空港だと思っ
【今なお残る旧関東軍指令部跡】
現在は人民解放軍司令部として利用されている。中国政府がもっとも嫌っている旧日本軍の遺物にもかかわらず、ちゃっかり利用してるところが中国人のしたたかさかもしれない。
ているけど、もしヒースローが中国にあったら間違いなく最優秀空港に昇格されるよな。」 一人がそういう。まちがいない、彼らは英国人以外のなにものでもなかった。 あと数人で自分の順番になり、2時をとっくに過ぎたころ、彼らは「あれ、カウンターが閉まっちゃうんじゃないか!?」とあわてだした。 どうやら便が遅れていることを知らない様子だ。 無理もない、チェックインカウンターの表示板には定刻どおりの”チェックイン受付13:00 - 14:10”と示されたままなのだ。

 「この便は遅れるらしいよ、表の掲示ボードに4時になるって書いてあった。」と説明すると、「え、うそだろ?」とめがねをかけているほうの男がいい、もみ上げを長く伸ばしているほうの男が、「そんならここにベンチもってきて、ビール飲みながら横になってようぜ。」という。

こうしてぼくたちの会話が始まった。

「ぼくらもビジネスでセイヤン(瀋陽)に来てるんだ。」
二人の身なりは非常にカジュアルだったので、てっきり観光かと思っていたぼくはへぇ〜といった。 どちらともなく簡単な自己紹介を済ませた後、何のビジネスで来てたの?と聞かれたので、ある日系企業の工場拡張工事をコンサルトするためだと答えると、「おお、偶然だね。おれ達もジャーマンカンパニーの工場設計を任されてるんだ。」という。 やがてお互いが担当している工場が両方とも自動車会社だということがわかり、なんとなく親近感がわいてきた。 一時間半も便が遅れる上に、こうして延々とカウンター前で待たされていると、まるで故障したエレベーターにたまたま乗り合わせた時のような奇妙な一体感すらあった。 彼らはぼくが日本人であることを了解の上で、「ここを取り戻しに来たのか?」と笑いながらいう。ぼくが答えを選んでいると、続けて「日本人のおかげだよ、100年前ロシア人からこの場所を勝ち取り、不毛のマンシュリア(満州)を重工業都市として発展させた。」という。 

実にそのめがねの英国人は、「ロシア人からこの場所を勝ち取り・・・」と言った、「中国人から」とではなく・・・。

ぼくたち日本人は、”かつて日本軍は満州国という傀儡国家を作ってこの土地を中国から奪い、中国人にずいぶんひどいことをした。”と歴史で習い、今でもそれを根拠に60年間謝罪し続けている。 しかし、この英国人が言うとおり、日露戦争直前 このあたりは帝政ロシアの直轄領だったのだ。ハルピンはロシア人の都市だったし、大連はダーリニー(ロシア語で遠い場所と言う意味)と呼ばれていた。ここ瀋陽(当時は奉天)は戦略的価値がないとろくに開発されず、わずかのロシア軍の兵舎があったくらいだったといわれている。 そして、南下するロシアを懸念する日本と、中国大陸の利権が危ぶまれていた英国の、対ロシアへの利害の一致から、日露戦争勃発2年前の1902年、あの日英同盟が調印された。
今なお瀋陽市内の至る所に残る、満鉄のマンホール


「それにしても、中国人が作った建物はホントみんな呪いがかかったようにオンボロ建物(Cursed Building)だよなー。」素材も粗悪だし、コンクリートの打ち方も間違ってるし、塗装料は不純物だらけだ・・・・。きっと、おたくの担当工場もそうなんだろう?」ともみ上げ男がいう。
そのとおり!とぼくは答える。 確かに現在コンサルトしている自動車工場も、とても5年前に建ったとはとても信じられないくらい内壁は剥げ落ち、床はでこぼこで天井には得体の知れないしみがひろがり、ドアは開かなくなっていたり、逆に閉まらなくなっていたりしていた。
彼らのような建築の専門家が見れば、そんな中国人の欠陥工事はがまんならないのだろう。 それを使うほうはなおさらで、だからB社はわざわざ余分にお金を払って英国人に設計を頼み、M社は日本人に拡張工事のスーパーバイズを頼むことになったのだ。

かつて香港の宗主国で揚子江地域一帯を牛耳っていた大英帝国、いっぽう満州一帯を牛耳っていた大日本帝国。
100年のときを経ながらかつて宗主国の子孫達が思うのは、植民地政策のすべてが悪かったわけじゃないということだ。


着膨れした瀋陽市民達の自転車の群れ、または行き交う人たちに路上で商売する新聞売りの足元には、今でも線路の断面図にMマークをあしらった満鉄鰍フロゴのはいったマンホールの蓋が当時のまま はめ込まれている。 それらは当時の日本人達がこの土地に夢や野望を抱きつつインフラを施した象徴だ。そして今では、誰に気に留められるわけでもなくこうして何十年もだまって踏まれ続けている。 



Feb. 12, 2004 (なおきち)


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